正法眼蔵 15_大悟

5月15日(月) 読了
  解説がないと難し過ぎて読み取れないので
  石井清純の解釈(PDF)を添える  『正法眼蔵』における「大悟」の定義について

1.はじめに

 「悟り」は道元禅師の思想の根幹にかかわる重要な問題である

 「現成公案」の章では以下のように述べている
   最終的には事象の全体認識を意識しながらも、
   それが現実には部分的認識としてしか存在しないという状況下において、
   その部分認識を、認識範囲外にある事象の存在を、
   「認識できないもの」として認識している

 道元禅師の大悟に対する定義を探り出していく

2.冒頭の一節について

 真福寺本は、
   「仏祖は、大悟から、いまこのようにやって来た。
    よって、大悟は仏祖の際を越えている」と、
   大悟を、仏祖の枠を越え、それを内包するものとして示している

 乾坤院本は、
   大悟から仏祖が現れるという前提は崩さず、
   「大悟の全体を悟ることが仏祖というわけではない」としながらも、
   さらに続けて、「仏祖全体が大悟全体ではない」と、
   両者を並列の関係に置こうとしている

3.末尾部分について

 真福寺本は、
   現実の事象として以外に、悟りを認識する手段が存在しないことから、
   その「悟尽」さえも、「暫時の伎倆」にすぎないものとされている。
   すなわち、「悟り」を極めて限定的に捉えている

 乾坤院本は、
   「而今のさとり(第二頭)」の遍満性が強調され、
   その同一属性上に、悟りの「黒」「白」すなわち諸相が顕現するもの

 真福寺本は、
   「悟り」とは、必ず「第二頭」すなわち現象下にあるものと規定する

 乾坤院本は、
   「第二頭も」と含みを持たせつつ、
   それが「なる」あるいは「きたれる」ものとする

 「悟り」という語が、
   個々の事象の状態を表現する言葉としてよりも、
   その根底に存在する「仏として」の同一の属性を示す単語として、
   定義が統一されていったものと考えられる

4.むすび

 「さとり」とは、
   「仏祖」としてのすべての事象が顕現する当体として定義される。
   しかしそれは、いまここに存在する事象そのものとしてしか認識できない
   それが第二の「悟り」ということになろう

   「悟り」は仏祖をあらしめる根源的普遍的な存在とされる

 真福寺本では、
   現実の事象を「悟り」を「暫時の」すなわち「暫定的」な状態としている

 乾坤院本では、
   「悟り」を一時的な状態や現象ではなく、
   より普遍的な存在として定義しようという意識が垣間見られる


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コメント

“正法眼蔵 15_大悟” への2件のフィードバック

  1. […] 原文は難しく、意味が読み取れない    詳しい解説は「日本の名著」を参照       […]

  2. […] 文は難しく、意味が読み取れない    詳しい解説は「日本の名著」を参照       […]

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