3月3日(金) 3月10日(金) 3月17日(金) 読了
※「読史余論」とは経路の違った、新たな主題に挑戦する
日本名著には西洋紀聞がないので読み込むのに苦労する
オランダ人からの聞き取り調査書
現代語訳がないと細かすぎて読み取れないので
諏訪邦夫の現代語訳(PDF)を添える 西洋紀聞
拾い読みで読了とする
1.他の人の読後感(苅部 直:抜粋)
シドッチの骨
シチリア島出身で、教皇の命を受け、日本への布教のため宝永五(一七〇八)年八月に屋久島へ上陸した司祭、ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッチ(シドッティ、一六六八年~一七一四年)。
当時の日本はいわゆる「鎖国」政策のもと、キリスト教の布教はきびしく禁じられており、禁教時代に訪れた最後の使節にあたる。
シドッチは日本に来る途中、マニラで手に入れた和服帯刀の姿で潜入したが、たちまち捕えられ、公儀の監視下に置かれて、翌年に江戸小石川(現、文京区小日向)の切支丹屋敷に移送された。そこに幽閉されたまま、上陸から六年後に没するが、二〇一四(平成二十六)年七月、屋敷跡の発掘調査でその遺骨が発見された。
屋久島へ上陸したとき、当時の公方、第五代の徳川綱吉はすでに晩年にあり、その甥、家宣(綱豊から改名)が六代目に就任した直後に、シドッチは江戸へと移送されている。そして家宣は、家臣であった朱子学者、新井白石(明暦三・一六五七年~享保十・一七二五年)に命じ、宝永六(一七〇九)年十一月から翌月にかけて、切支丹屋敷でシドッチの訊問を行なわせる。白石が二度の問答のようすを記録し、みずからの評言を書き加えた短い書物が『西洋紀聞』である。
この本は、あとで江戸に来訪したオランダ商館長から得た情報も追加して、正徳五(一七一五)年にいったん成立したようであるが、晩年まで手を加えていたことが本文から窺える。
訊問ののち白石が記した「羅馬人処置建議」(村岡典嗣校訂『西洋紀聞』岩波文庫、一九三六年に収録)は、シドッチの処分について上中下と三つの方針を挙げる。「下策」はかつてのキリシタン弾圧の例にならって処刑すること。しかし白石は、シドッチは「蛮夷の俗」のなかで生まれ育ったせいで、「天主教」が邪教であることを知らなかったのだと説き、教皇の命令に忠実に従い、命の危険を顧みずにはるばる日本まで渡航した「志」は評価すべきだとする。白石は二度の対面をへて、その「道徳」はまったく評価できないが、「志の堅きありさま」に感銘を受けたと述べ、この人物を処刑してしまえば「古先聖王の道に遠かるべし」、すなわち人々に憐れみを施す儒学の聖人の道に反すると説いたのである。
したがって白石が「上策」として挙げたのは、長崎もしくは琉球を経由してシドッチを帰国させ、公儀の禁教政策は変わらないことと、公方の「仁恩」の広さを西洋にも知らせようとする策であった。現実に実行されたのは、白石が「中策」とする幽閉の継続であったが、発掘された遺骨が明らかにするところでは、シドッチの遺体はキリスト教の葬法に従って、身体を伸ばした状態で棺に収められ土葬されている。この処置はあるいは、邪教の信徒ではあっても「志の堅き」人物に対する畏敬を示しているのかもしれない。
「形而下」の学のパフォーマンス
シドッチは、日本に来たときすでに数え年で四十一歳。教会では高い地位にある人物が、周到な準備を経て来日した。対する白石は五十三歳。公方の政策顧問という儒者としては最高の地位についたところである。切支丹屋敷での訊問は、そうした大物どうしの対面の場であった。
大きな危険を冒しながら日本に来たのは「法のため、師のため、其他あるにあらず」というシドッチの言葉を、白石は記録しているが、そこに「志の堅きありさま」を見てとったのであろう。
東と西の対決
他方で、「形而上」の道理や人間世界の「教法」「道徳」に関することでは、白石は鋭く考察をめぐらせ、シドッチの矛盾を指摘する。
西洋と日本の知識人の、正面からの対決の場が生まれたのである。シドッチは、「試<こころみ>に物を観るに、其始<はじめ>皆善ならずといふ事なし」と言った上で、「天地の気、歳日の運、万物の生」はみな「東方」から始まるのだから、ユーラシア大陸から見て東の端にある日本は「万国にこえすぐれ」た国だと、あからさまなお世辞を口にするが、白石はまったくとりあわない。
このシドッチの発言について白石が記すのは、創造主である「天主」への信仰を、父への孝や主君への忠といった道徳よりも優先させ、人間関係におけるモラルを顧みない、キリスト教に対する批判である。「もし我君の外につかふべき所の大君あり、我父の外につかふべきの大父ありて、其尊きこと、我君父のおよぶところにあらずとせば、家におゐての二尊、国におゐての二君ありといふのみにはあらず、君をなみし、父をなみす、これより大きなるものなかるべし」。キリスト教の神への信仰が、現世における権威を相対化し否定してしまうという批判は、白石に限らず、徳川時代におけるキリスト教批判の論理として、しばしば見られるものである。だがそれに加えて、シドッチが日本をほめると同時に、キリスト教圏ではローマを「尊び敬はずといふ所なし」と語っているところに、矛盾を見いだしていたのだろう。
異文化圏からの来訪者に対して、その発言に真摯に耳を傾け、その内部にある矛盾を見いだすまでに、深く理解しようとする態度。『西洋紀聞』は、徳川時代における西洋研究の出発点として評価される。
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