5月22日(月) 5月29日(月) 6月5日(月) 6月12日(月) 読了
「弁道話」は本来は『正法眼蔵』には掲載されていないが
95巻本の第1巻に収録されている
道元禅師が日本に帰国後、最初の体系的な著作として著したもの
全体は28文段で構成されている
最初の10文段は、坐禅は万人が等しく成仏できる安楽の法門で
修(坐禅修行)のほかに証(悟り)はないとする
残りの18文段は、禅問答が収められている
1.第1文段
諸仏如来の悟りを証明するのに、最上無為の法は自受用三昧である
自受用三昧とは「真の自己と一つになる三昧」
すなわち「端坐参禅を正門とせり」と述べ
真の自己と一つになる坐禅のことだとする
2.第2文段
諸仏は常に、自受用三昧にあって、
心境一如の悟りの境地を達成し、自他を隔てる壁を超える
今までの教理の細目にこだわる必要はない
3.第3文段
道元禅師の求道の旅について述べている
国内では建仁寺で栄西禅師の高弟明全和尚の下で9年間臨済禅を学ぶ
渡宋し、浙江省の東西の善知識を訪れ、禅の五門の家風を尋ねる
太白峰の如浄禅師に参じて、一生に参学すべき仏道を悟る
その後、帰国し仏法を広め人々を救うことを願った
4.第4文段
「弁道話」を書いた目的
大宋国で見聞した禅道場の規則や、
受け伝えてきた善知識の深い宗旨を集めて記述する
仏道を参学する人に残し、仏家の正法を知らせるのが仏道の秘訣である
5.第5文段
中国では達磨尊者を初祖とする教外別伝の仏法である禅は
一筋に祖師から祖師へと相伝して、自然に六祖 大鑑慧能禅師に至った
この時真実の仏法がインドから東の中国に流伝して
教理経論や言語文字の枝葉末節に拘泥しない
活きた仏法の妙旨が世に現れる
これが教外別伝の仏法である中国禅(南宗禅=祖師禅)である
道元の宋滞在時には
法眼宗、潙仰宗、曹洞宗、雲門宗の四家は既に衰え
臨済宗のみが盛んだった
6.第6文段
経典に基づく大乗仏教より純一な仏法である禅の優位性を主張する
中国には後漢以来、経典が伝えられて広まり
その教えの優劣が論じられたが決論は出なかった
祖師達磨がインドから渡来してからは、
直ちに経典仏教の優劣問題の葛藤の根源が断ち切られ
純一な仏法(禅)が広まった
ただひたすらに坐禅して身心脱落すべき
坐禅中心の禅仏教が最高の仏法だ
身心脱落とは自我への執着が脱落して無我の悟りを得ることだ
身心脱落の悟りはブッダの無我の悟りと同じだと
7.第7文段
もし人一時なりといふとも三業に仏印を標し三昧に端座するとき
遍法界みな仏印となり尽虚空ことごとくさとりとなる
諸仏は本身の法楽を増して、悟りの世界が新たに荘厳される
万物は共に仏身を働かせ、すみやかに悟りのほとりを飛び越えて
釈尊が開悟成道した菩提樹下に端坐する
同時に無上の大法を説いて、究極無為の深い般若の智慧を演説する
8.第8文段
(1)坐禅の無上の悟りの力は、修行者に帰って親しく密かに助ける道が通じる
この修行者は確実に身心脱落し、
従来の邪見、思量を断ち切って、天真の仏法を悟る
(2)無量無辺の諸仏の道場ごとに、
仏の教化を助け、仏を超えた働きの影響を受けて、
仏法の最上の境地を宣揚する
(3)十方世界の土地、草木、土塀、瓦礫の様な無情も皆仏法を説き始め
それらの起こす風水の利益を受ける人々は、
皆、甚だ優れた不思議な仏の化導に密かに助けられ親しい悟りを現わす
(4)この水火を受用する人々は、
皆、本来悟りの中にあるという仏の教化を行き渡らせるため
これらの人々と共に住み共に語る者には、皆互いに無窮の仏徳がそなわる
(5) 尽きることも、絶えることも、考えることも計ることも出来ない
不可思議な仏法を、次々にあらゆる世界の内外に広めて行く
9.第9文段
修証一如について
「修」は修行のこと、「証」は「悟り」のこと
修行した結果として「悟り」を得ることができる
「修行」と「悟り」は全く別物である、筈だが
「修」も「証」も悟りの本体である仏性(健康な脳)の働きである
坐禅修行が深く進めば、
脳内事象である「修」と「証」をはっきり分けることができなくなる
脳内は元のままで変わらないが、順次に広く働きを及ぼし
広大な仏事や甚深微妙な仏の教化が脳内で密かに行われる
10.第10文段
自受用三眛の修行
あたかも鐘を突く前後に妙音が綿綿として絶えないように、
仏の教化を絶え間なく実践する三昧(禅定)である
たとえ十方の無数の諸仏が、共に力を励まして、
仏の智慧で坐禅の無量無辺の功徳を量り、知り尽くそうとしても、
すべてを知ることは出来ない
11.問答1
問い:仏法には多くの門があるのに、なぜもっぱら坐禅を勧めるのか?
答え:坐禅は仏法の正門である
12.問答2
問い:なんぞひとり正門とする?
答え:釈尊は、坐禅を悟りを得る妙術として伝えた
また三世の諸仏も、坐禅によって悟りを得た
このために、坐禅が正門であると人々に伝えた
インドや中国の祖師達は皆坐禅によって悟りを得た
坐禅を仏法の正門だとして人間界天上界の人々に示す
13.問答3
問い:読経や念仏は、自ずから悟りの因縁となるかも知れない
何もしないで空しく坐していることが、なぜ悟りを得る手段なのか?
答え:何もしないで空しく坐していると思っているようだが、
壁に向かって坐禅するのは、諸仏が自受用三昧に安座している姿である
諸仏の境界は不思議で、人の意識の及ぶ所ではない
まして不信の者や智慧の劣る者は知ることはできない
仏法は、ただ正直な信心の大器の人だけが、入ることが出来る
不信の人は、たとえ教えても受け取ることは難しい
念仏修行はし、「春の田で蛙が鳴いている」ようなもの
坐禅弁道の修行をし、諸仏の自受用三昧を証得すべきである
14.問答4
問い:修行は、何の優れたことがあって、ひたすら勧めるのか?
答え:仏教では、教えの優劣を議論したり、法の深浅を選ぶことはない
ただ修行の真偽を知るべきである
即心即仏は、水面に映る月のようなもので本物の月ではない
即坐成仏は、鏡の中の姿のようなもので真実の姿そのものではない
直接に悟りを証する修行を勧めるのは、
坐禅の妙道を示して、真実の道人となってもらうためである
我々は無上の悟りに欠けているのではなく、永久にそれを使用している
我々は本来、無上の悟りの本体(脳)を具有し、
常にそれを日常の言語動作において使用しているのであるが、
を理解出来ないだけである
15.問答5
問い:なぜこの坐禅の中に如来の正法が集めてあると言うのか?
答え:道元は、禅宗はインドには無く、中国起源のものだと答える
その1:大梵天王問仏決疑経説
霊鷲山の法会で(正法眼蔵 涅槃妙心)無上の大法を、
摩訶迦葉尊者に授けた儀式を経典に説いている
その2:天人仏法護持説
仏法は、天人たちが永久に護持する、という説
天人の1年は人間の500年に相当すると考え
10才の天人は5000年生きている
2500年前の釈尊を天人達は目の当たり見ている
現在では、さすがに道元の考えは2つとも否定される
授けた儀式は他の経典には一才記述がない
天人という考えはあり得ない
16.問答6
問い:なぜ坐だけを取り上げて禅定を勧め、悟りに入ると言うのか?
答え:祖師は「坐禅は安楽の法門である」と坐禅を褒めている
坐禅は行住坐臥の四儀の中で安楽なためだと思われる
坐禅は、一仏二仏ではなく、全ての諸仏諸祖が修行した道
17.問答7
問い:既に仏の正法を明らかにした人は、坐禅して何を待ち望むのか?
答え:仏法では、修行と悟りは同一である
既に修行は悟りなので、悟りに終わりは無く、
悟りは修行そのものなので、修行に始めは無く終わりも無い
18.問答8
問い:唐国へ渡って日本に法を伝えた諸師は、
何故この坐禅を差し置いて、ただ教えだけを伝えたのか?
答え:禅が必要とされる時節が来ていなかったから
19.問答9
問い:昔の師は、この坐禅の法を会得していたか
答え:会得していれば伝えていただろう
20.問答10
問い:長文で難解
答え:長文で難解
双方とも長文で難解で分かりにくい、道元は最後に短く要約する
我々は、すでに仏子である
外道の思想を語る狂人の話を聞く時間はない
21.問答11
問い:坐禅を専一に修行する人は、必ず戒律を厳守するべきでしょうか?
答え:持戒梵行は禅門の規律で、仏祖の家風である
受戒していない者や戒を破った者も、
坐禅をすればしただけのことはある
22.問答12
問い:さらに密教の真言止観の行を兼ねて修行しても、妨げはないでしょうか?
答え:一事に専念しなければ、悟りの智慧に達しない
空海は即身成仏を説いたが、自身は成仏せず菩薩の境涯で留まる
23.問答13
問い:坐禅の修行は、在家の男女も励むことが出来ますか?」
答え:仏法を会得することに、男女や貴賤を選んではならない
24.問答14
問い:在俗の多忙な人は、どのようにして一途に修行しうるのか?
答え:仏祖は、人々を哀れに思うあまり、広大な慈悲の門を開いた
人間界や天上界の中で、誰がこの門に入れない者がいるだろうか
25.問答15
問い:坐禅の行は、末法の悪世でも修行すれば悟りを得られるでしょうか?
答え:正法、像法、末法と時代を分けることはない
修行すれば、皆悟ることが出来る
26.問答16
問い:仏法は本来自己に具わっていると知れば、これが円満な悟りであり
更に他人に向かって求めるべきではない
まして坐禅修行を煩わしくする必要があろうか?
答え:自己即仏と理解することが、仏法を知ることではないということ
ひたすらに坐禅修行し、わずかな知識や理解をも心に留めない
道元は禅の悟りは
理屈や知識・概念によって説明できるようなものではなく、
虚心にひたすら坐禅に集中することで体得されるものと説く
27.問答17
問い:昔から道を悟った者は多いが彼らは色んな機縁で悟っている
必ず坐禅修行しないと悟ることはできないのだろうか?
答え:道を悟った人達は、
仏道修行に於いて是非を推し量る心がなく、
自他の対立がなく、全自己のほか何物もない
「心境一如」の境地にあったからである
「心境一如」の悟りの境地に至ることができる坐禅修行は不可欠である
28.問答18
問い:世をあげて皆 愚かで心は狭小である
うわべの善を好んでいるこのような人達が
たとえ坐禅したとしても、すぐに仏法を証得できるだろうか?
答え:人は、まさに正しい信心を起こして修行すれば、
賢愚の区別なく、等しく悟りを得るのである
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