読史余論 第三巻

6月16日(金) 6月23日(金) 6月30日(金) 7月7日(金) 7月14日(金) 7月20日(木) 7月21日(金) 7月27日(木) 7月28日(金) 読了
 室町家代々の将軍のこと
  ・足利義満、武家職制を整う
    畠山が管領、斯波・細川・畠山が三職
    山名、一色、土岐、赤松、京極、上杉、伊勢が七頭

    朝廷の五摂家、七清華セイガに習ったもの
    摂家の出現は皇室が衰えてゆく初めである
    不学無術ゆえの過失である

    義満は驕り昂り、朝廷の礼法を横取りし、無知で出鱈目
    事の良し悪しを考えず、父祖の残した功績を笠にきて家を栄させたが
    事業を創めて子孫に伝えてゆくという深い思慮を欠いている

   関東でも
    関東管領を将軍と呼ぶ
    家老の上杉を管領
    千葉、小山、長沼、結城、佐竹、小田、宇都宮、那須を八屋形ヤツヤカタ

  ・応永の乱
    大内義弘の軍勢が堺に溢れる
      義満が3万の兵で攻め、義弘を討ち取る
    これ以降、畠山は河内・紀伊、細川は摂津・和泉を領地とする

  ・関東管領足利利満の叛意

5月4日(木) 5月11日(木) 5月18日(木) 5月25日(木)
 足利殿が北朝の天皇を立てたこと
  ・後醍醐天皇、吉野へ

  ・新田義貞死す
    5月に北畠顕家が和泉で討死
    閏7月に新田義貞が越前で討死

  ・後醍醐天皇死す
    8月の後醍醐天皇が死去する

  ・後村上天皇、賀名生へ
    楠正行が河内で挙兵
    高師直・師泰が出陣する
    楠正行が四條畷で討死
    師直・師泰が吉野へ攻め込む
    後村上天皇が賀名生へ逃げる

  ・足利直義と高師直の対立
    直義が師直の暗殺を企て表面化する
    尊氏が直義を匿う
    直冬は九州に逃げる
    尊氏は義詮を関東から呼び寄せ、政務を執行する
    直義は出家する

  ・足利直義党の蜂起
    直冬討伐の御教書が発せられる
    師直が出陣する前に直義暗殺の噂が流れ、直義は逃げる
    直義は吉野に逃げ、南朝に加わる
    直義は軍勢を整え京に向かう
    義詮は備前に居た尊氏に報告する、京に引き返す
    師泰も引き返す、師直も京に引き返す

  ・高師直一族亡ぶ
    義詮は京を脱出し尊氏の元へ逃げる
    義詮は丹波、尊氏は播磨、で直義軍を迎え撃つ
    師直・師泰が責任を負って降参し出家することで和議が成立する
    武庫川を過ぎたところで高兄弟は暗殺される

  ・足利直義の没落
    直義は北陸に逃げ、その後鎌倉に入る
    尊氏は追討に向かい、直義は捕えられ獄死(毒殺?)する

 ・南朝方の大攻勢
   一旦、尊氏は武蔵国に引き篭もる

 ・南朝方の敗退
   北朝は後光厳天皇が3種の神器なしで即位する

 ・足利尊氏・直冬父子の対立
   直冬は山名と組み南朝方に味方する、兵糧が尽きて頓挫する
   尊氏が亡くなる

 ・足利尊氏評
   尊氏は戦術に優れ、度量のゆったりした人物
   直義は謀にたけ、政務に精通する

   乱れ切った武家の時代を南朝の天皇は統一できなかった
   忠をたもち、義を知る者もいたが、兵力は弱く、自立しなかった
   南朝による統一は最後まで成功せずに終わる

 ・細川頼之、初の管領となる
   義詮が病に落ち、義満に政務を譲る
   細川頼之を執事とし、その後管領とする

 ・足利義詮評
   南朝方が背き、山名・細川・仁木、足利らが次々に背く
   叛いたのは義詮が佐々木道誉を寵愛したことによる

 ・楠正儀、義満に降る

 ・細川頼之の転変
   


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