正法眼蔵 12_行仏威儀

4月10日(月) 読了
  雪峰真覚大師は「三世の諸仏は、火焔の中にあって大法輪を転ずる」
    火焔の中こそ仏の道場
    三世の諸仏とは法輪を転がす道場であるから、火焔が燃え盛っている
    火焔があるから諸仏の道場が存在する
  玄沙宗一大師は「火焔が三世の諸仏のために説法する時は、三世の諸仏はたちどころに聞法する」
    諸仏が聞法する法とは諸仏自身の法であって、他から受けているのではない
    火焔を法だと思ってはならない、火焔を仏であると思ってもならない
    また火焔を火炎だと思ってもならない
    説法と聞法の間に優劣はない
  圜悟禅師は「一人は猴は白いと言い、一人は猴は黒いと言う」と
   「燃え盛る焔が天を覆えば、仏は法を説き、天を覆うた焔が燃え盛れば法は仏を説く、然るに風来たって、この二人のフジツルを吹きちぎってしまった」
    三世の諸仏は三世にわたって仏に説かれており、
      三世の諸仏は三世にわたって仏に説かれている、と
        一言の元に維摩居士をも道破する

4月3日(月

 補足

   雪峰セッポウ真覚大師
     822年〜908年 中国の唐末〜五代十国 禅僧

   玄沙ゲンシャ宗一大師
     835年〜908年 中国の唐末〜五代十国 禅僧

   圜悟エンゴ禅師
     1063年〜1135年 中国の宋 禅僧

3月27日(月)
  
行仏威儀とは、実践する仏のふるまい、又は仏を実践するふるまい
    解説文を要約するのみ、難解で理解できない

  諸仏は必ず日常生活の決まりを踏みしめている・・・行仏
    諸仏が仏道を行じているときは、覚るサトルことを要しない
      行仏でなければ、仏の束縛や法の束縛から自由になることはできない
      仏の束縛とは、悟りを悟りとして理解すること
    このようなふるまいは、いかなる形でも汚染されない
      不惜身命フシャクシンミョウにとどまらず、但惜身命タンジャクシンミョウにもなる
        命を惜しまない、ただ命を惜しむ
    行仏は仏の側からも、心の側からも規定することはできない
      仏も心も行仏の一面にすぎない
      仏とは覚者、心とは世界の大きさ
        行仏のふるまいは心の大きさを超えている、大小では量れない
    行仏とは、あることを体得しながら別のところへ来てふるまう
      生まれ出る場合も行仏、死に至る場合も行仏
      生死の全体があたかも珠玉の転がるような営みである
    天地全体(全世界)が隠れもない行仏のふるまいということができる
      一方、ふるまいの一つにすぎないということもできる
    泥まみれになりながら活路を開いて行くと、自ずから自由自在になる
      花開けばそこから世界が始まる
      悟りといえば悟り、迷いといえば迷い、
        悟りも迷いも行仏の躰の中で指を動かしているに過ぎない
    生死を心に任せ、身に任せ、仏道に任せ、生死自体に任せるほかはない
      たちまち行仏のふるまいが現れ、生死や心身の意味が納得できる
    三人の達人(雪峰、玄沙、圜悟)の言葉を紹介する
      雪峰・・・諸仏は火焔の中にあって大法輪を転ずる
      玄沙・・・諸仏は立ちどころに聞法する
      圜悟・・・一人は猴は白い、もう一人は猴は黒いという
           燃えさかる焔が天をおおえば仏は法を説き
           天をおおた焔が燃えさかれば法は仏を説く

      道元は圜悟の「仏が法を説く、法が仏を説く」に感心する


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“正法眼蔵 12_行仏威儀” への2件のフィードバック

  1. […] 3月28日(火)  ※原文は難しく、意味が読み取れない    詳しい解説は「日本の名著」を参照       […]

  2. […] 3月28日(火)  ※原文は難しく、意味が読み取れない    詳しい解説は「日本の名著」を参照       […]

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