4月20日(木) 4月27日(木) 読了
後醍醐天皇の中興政治のこと
・朕の新儀は未来の先例
新たな勅裁が発せられる
「いまの例はむかしの新儀である、
朕の新儀は未来の先例となるべきである」と言う
・公武水火の世
記録所・決断所を設けたものの、近臣たちが内密の申出によって
道理に合わないことをする、天皇のことばも朝に変わり、夕方に改まる
「太平記」には「武家が権力を握る世の中にもう一度なって欲しい」
「梅松論」には東国の武士は鎌倉に居た直義に帰服し京都には応じない
・護良親王の反逆
大塔宮、新田義貞、楠正成、名和長年が足利高氏と対立する
高氏が憤懣を申し述べると、天皇は「天皇の意志ではなく
大塔宮が勝手に行ったもの」と言い訳する
大塔宮は鎌倉に送られ、「武家よりも天皇のほうが恨めしい」と漏らす
・足利尊氏反逆の要因
「難太平記」は尊氏・直義兄弟だけが武家の世をと考えた訳ではない
足利家時の代からあった、
機会がないまま時は過ぎ参加したのは、ただ威勢を借りただけ
大塔宮は早くから見抜き、天皇に討伐をすすめるが赦しが出ず
躊躇っているうちに尊氏が先に手をうつ
・新政の批判
朝廷のまだ衰えていなかった時代へと戻そうとすることは
基礎が傾き破れたのをとりあず粉飾を加えることでしかない
このような時代の急務は刑罰と賞与の二つ
功臣の第一は楠木正成、一人節を曲げず東国と戦い続けた、
第二は新田義貞、次は赤松と名和と続く
尊氏にはたたえるべき功績はない
源氏の流れを引く大将が味方するとなったのが頼もしかった
義貞は名も知らなかったが、源氏の正統であり功績大とした
・中先代の乱
北条時行が信濃国で挙兵する
尊氏は征夷将軍と東八カ国の管領を望むが
天皇は将軍の件は関東を静めてから、管領の件は了承する
さらに天皇の名から「尊」の一字を与える
「梅松論」は公家たちに非があるように記述してある
鎌倉下向を許さなかった、ような記述は
尊氏が怒りながら出陣したのであろう
・足利尊氏の去就
鎌倉に入ってのち、京に呼び寄せれられたが、上洛しなかった
そのうち将軍と自称し、東国の所領を戦功の賞とする
新田義貞が尊氏追悼の命を受け出陣する
・足利尊氏、政権を弟直義に譲る
上洛しなかったのは自分の意思ではないと政務を直義に譲る
直義軍が劣勢ときき竹ノ下まで出向き合戦し、勝利する
・錦の御旗
尊氏が京都に入るが敗れて兵庫に落ちる
赤松円心が一旦西方に引かれて御旗を用意すべきと進言する
船で夜中に西国(備後の鞆)まで引き、さらに九州まで下る
・九州、足利尊氏につく
四国・中国地方に味方の兵を置き、筑紫國へと下る
九州はしばらくして全て尊氏に味方する
陸奥国・常陸国も朝敵が蜂起する
北畠顕家が東国、新田義貞が西国へと向かう
・賢俊との会見の時期
厳島に滞在中に三宝院僧正賢俊が院宣を持参する
兵庫を落ちのびる際に院宣を求めていたもの
・南北朝内乱の開幕
兵庫にて楠兄弟は討死、京都にて名和長年も討死
新田義貞は敗北し逃げる
4月6日(木) 4月13日(木)
北条が代々天下の権をつかさどったこと
・北条義時のこと
「東鑑」には南無阿弥陀仏のを唱えながら死んだとある
極楽往生したと記述が有る
「保暦間記ホウリャクカンキ」には近習の小侍に刺殺されたとある
・北条義時評
わが国の歴史を通じて第一等に小人物
3人の帝、2人の皇子を流刑に
1人の天皇を廃し
頼家とその2人の子を亡き者に
頼朝の弟1人、甥1人を亡き者に
「東鏡」より「保暦間記」の記述が正しいのではないか
・一条実雅擁立計画と北条泰時
義時の跡目争いが勃発する
泰時が無地に引き継ぐ
・大江広元死す
時政の幡殺し、義時の奸智な企ては全て広元の名を借りる
広元の媚びへつらいと底知れぬ奸智は義時につぐものである
・平政子・北条泰時死す
・将軍九条頼経、北条時頼に追わる
・宝治合戦前後
若狭前司三浦泰村が騒ぎを起こし、北条時頼により鎮められる
・北条時頼評
将軍九条頼経を追い出す
三浦一族を滅ぼす
時頼を泰時と並べて評価するのには納得できない
異国の僧侶(建長寺 道隆)を迎えて禅の巣窟を開き、
今もって世間の無駄となっている
・将軍宗尊、鎌倉を去る
長時が亡くなり、時宗が執権となる
将軍宗尊が病に陥る、時宗に対して謀をめぐらしたことにより帰京する
・霜月騒動まで
蒙古襲来が2度にわたり起きる
時宗が亡くなる、嫡子貞時が家督を継ぐ
霜月騒動・・・貞時の外祖安達泰盛とその子宗景の一族を殺す
宗景が源氏に改称した際に、将軍になるためと疑われる
・将軍惟康親王、京都を追われる
後宇多天皇を退位させ、伏見天皇を即位させる
貞時が新しく伏見天皇の弟久明親王を将軍に迎える
・北条貞時の施政
将軍久明親王を追放し、その子守邦親王を将軍にする
後伏見天皇を退位させ。後二条天皇を即位させる
主な出来事
外祖・外舅の殺害(泰盛・宗景)
主君二人の追放(惟康・久明)
天皇の退位(後宇多・後伏見)
4度の戦乱(泰盛・果円・吉見・宗方)
・北条氏亡ぶ
新田義貞に執権高時が滅ぼされる
・北条氏歴代評
時政・義時・泰時・時氏・経時・時頼・時宗・貞時・高時(九代)
時政・義時の奸悪ぶりが目に付く
義時は承久の乱後に、多くの闕所を自分は取らず全て分配した
泰時は北条氏が陪臣としてながらく権力を握ったのは泰時のおかげ
時氏は父親に先立って死んでしまう
経時は特になにもなし
時頼は建長寺創建が悪い
時宗は持明院統と大覚寺統の交互に皇位につくことを始めた
貞時は諸国に巡察使を派遣した
高時は論ずるに足らず
3月9日(木) 3月16日(木) 3月23日(木) 3月30日(木)
源頼朝父子三代のこと
・源頼朝、権力を握る
挙兵から地頭の設置まで
・人柄と家柄
「神皇正統記」を例に引いて人物像を明らかにする
・日本が乱れた理由
荘園制の崩れる理由を述べている
・守護・地頭の設置
平家が治めていた土地を没収し、諸国一律に地頭を配置した
頼朝が後白河によって引きおこされた混乱を沈めた
頼朝や泰時(貞永式目)がいなかった日本はどうなっていたことか
・頼朝評
頼朝が挙兵したのは天皇のためとか民を救おうとしたのではない
功労に思い上がり皇室を脅かし制約した
頼朝は残忍なところがあり、猜疑心が深く兄弟一族を多く殺した
北条氏に頼て孤独の身を託し、後に北条氏に後継者を滅ばされる
・源頼家の治世
治世はわずか5年
・安達景盛の一件
頼家が景盛の女を奪い、景盛を討伐しようとする
政子が間に入り、頼家を十分に諭し終結させる
・梶原景時亡ぶ
景時の頼家への悪告げにより反感を買い、亡ぼされる
・北条時政の悪さ
時政は景時が最初に鎌倉を去った時には黙って見過ごす
やがて戻ってきた時に、追放し進退窮まって叛乱したところで討ち取る
・北条泰時の諫言
※徐々に頼家に対する悪言が多くなる
・北条時連改名の一件
壱岐判官知康が北条時連に改名を勧める、頼家が乗っかり改名を命じる
政子は知康と義仲や義経の関係を持ち出して頼家を諫める
知康の害悪によって義仲は後白河を攻めた
知康は義経と心を一つにし鎌倉を脅かした
・比企氏の乱
病気の頼家は北条時政を討つように命令する
逆に時政によって全て打ち取られる
頼家が出家する
・北条時政評
時政の悪だくみを推察する
頼家の命令を曲げ、伊豆へ移らせ、死に追いやる
こののち実朝をも亡きものにするのである
・源実朝のこと
頼朝の次男として登場する
・畠山重忠の討伐
平賀朝雅トモマサと畠山重保シゲヤスが口論になる
娘の夫(朝雅)が罵られたのに腹を立てた、
北条時政の後妻が重保の追討を願い出る
一旦は中止したものの、
時政の後妻のもし立てにより北条義時は追討を了承する
打ち取られた重保の父である畠山重忠を救援に向かう途中で討取る
夕方に、稲毛入道の家の子郎党が重忠を騙し討ったとして殺される
またもや時政は重忠殺害の罪を稲毛におっかぶせた
・北条時政、将軍廃立に失敗
時政の後妻が娘婿の平賀朝雅を将軍に立て、
実朝を無きものにするとの噂が立つ
実朝を時政の家から義時の家に移す
時政は出家する、朝雅は京都にて殺される
・公暁のこと
頼家の子(公暁)が鶴ヶ丘八幡宮の別当の弟子になる
実朝は養子になる
・和田合戦
<和田義盛が討たれるまでの詳細な記述>
・実朝と和田義盛
実朝自身が義盛親子を頼りに思っていてのを
義時が悪く勘ぐって義盛の勢いを阻んだ
義盛の挙兵は主君のためを思ってのことで、謀叛ではない
・陳和卿チンナケイきたる
東大寺の大仏を造った人物、
頼朝に会見できていなかったので実朝に会いに来た
義時と広元が実朝の官位ばかりを昇ろうとするのを諫める
「源氏の正統は私の時代で縮小し、子孫が継承することはできない
家の名を高めようとするだけである」と言われ、引下がる
・実朝、公暁に殺される
実朝が右大臣に任じられ、右大臣拝賀の儀式が行われる
大雪の中、色々と不吉なことが起き皆が気遣う
石段の下で公暁によって殺される
2月23日(木) 3月2日(木)
中世以来、将軍の職が世襲となったこと
・承平・天慶の乱
※非常に細かな記述が続く
・平忠常の乱
源頼信が海の浅いところをよく調べて渡った
平家物語の「藤戸」より先の例だと記述されている
・山法師の嗷訴
・前九年の役
※非常に細かな記述が続く
・後三年の役
※非常に細かな記述が続く
・源義親・義綱の討伐
・源氏と平氏
※武家が天下を治めることになった必然性を丁寧に記述する
・武家の治世となった要因
源氏が天下の権を朝廷より分掌するにいたったのは天慶の乱が原因
摂関家が権力を奪い、天皇の権威が弱まり武力の備えも緩む
摂政の職を世襲し官職も世襲となる、将軍の職もその系統が任命された
将軍に所属する兵たちもその属兵(私兵)となる
源氏と平氏の軍事権を緩めようと思えばできたのに行わなかった
・憎むべき仏教勢力
一向宗は将来において、国家の憂いをなす
※加賀の一向一揆や信長との対決を引いて、
今日もなお禍の根が絶えないと述べている
・平氏の滅亡まで
2月9日(木) 2月16日(木)
古代には征伐は天皇の手で行われた
・叛臣征伐のはじめ
崇神天皇の四道将軍について、この時代には状軍という呼び名は無い
またこの時代には漢字が伝来していない
※冷静な視点に驚く
・熊襲の叛乱
・神功皇后の活躍
仲哀天皇の死去や応神天皇の誕生に疑いがあって、
仲哀天皇の2王子が挙兵した
・蝦夷の叛乱
・天皇の親征は通例
斉明天皇は蝦夷討伐の後、百済救援のため土佐国まで出かけて世を去る
女性の天皇が自ら出陣し征服する
※征討は国家の重大事、
のちの世のように将軍に命じて討伐させることは無い
・壬申の乱の意義
天武天皇はいったん勝利し天下を支配するが、
孫の孫である称徳天皇で断絶する
天智天皇の孫の光仁天皇が天下を治めて今日に至る
大友皇子は確かに天智天皇の跡継ぎとして天皇の位についたし
天智天皇の死去についても奇怪な噂が伝わっているから
天が道徳的に正しい側に味方したことは明白である
・藤原広嗣の乱
人民がそむき、天皇が国内で武力を動かしたことの最初と言える
・あいつぐ蝦夷の叛乱
・薬子の乱
・臣下が兵馬の権を握る
これまでは反乱が起きるたびに適任者が選ばれて将軍の任にあたり
乱が平らぎ功が成れば、また宮廷に入って大臣の地位に列する
これ以降は帝王の政治の大綱がゆるんで
実験を握った臣下が権力をわがものとしたから
将軍の任務もことに軽んじられ、大臣の地位に昇る人物は現れず
しかも文武の職が世襲的な匂いのつよいものに成り果てたために
朝廷の権威は日々に衰え、功績のある臣下がついに兵馬の権を握る
天下の大勢が、一たび変化すると昔にかえることができない時代になる
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